満77歳を迎えた私の感懐

満77歳を迎えた私の感懐

第1編 「暗黒の小学生生時代から今に至るまでのスポーツ遍歴と健康にこだわる訳」

小学1年生から始まった現在の私の原点についてまず語りましょう。

小学1年生の時、私は「肺湿潤(肺結核の前兆)」の病気に冒され、田平町の谷川病院に3ヶ月も入院しました。

そのため3年生まで「絶対安静」と言われ体育はおろか、動くことさえ禁止されていたのです。

そのことから4年生になり体育が解禁になっても極度のスポーツ音痴になり、劣等感を強く抱いた小学生でした。

しかし、小学3年生まで国算社理だけは母親が授業を受けに連れて行ってくれていたお陰で学力だけは維持できていました。

転機1 小学3年生の担任の近藤柱石先生から「時間を大事にしながら読書に励み学力を磨きなさい」というアドバイスで先ずは勉学から頭角を現し、スポーツ劣等感の代償行為となり平常心を保つことができました。

転機2 中学生になって体力が回復した時期に体育の井手嘉徳先生の師弟同行(ランニング・テニス・キャッチボールなどの相手をして頂いた好意)のお陰でそれまでのスポーツ劣等生がスッカリ変身しました。

一番苦手にしていたスポーツ面で先ず長距離走に自信を持った効果は絶大なものがあって5教科以外の「音楽」「図工」「技術家庭」などまでオール5(当時は優)を総なめにしました。

この影響は高校生時代も続きます。猶興館高校でも1年次はバスケ部で、バレー部と掛け持ちをしたり、新聞部や生徒会などもやっていました。

また、学外では勝尾岳のナザレン教会で故古川俊一や山鹿素子など6人の仲間と英会話や新訳聖書の勉強を楽しんでいました。

高校3年次には物理の椋本薫先生の影響で「集中力」と「持続力」を着けるため田平町野田の是心寺の門をくぐり、「興.禅会」に入会して坐禅修行をしました。

兎に角、中高生時代はあれやこれやと小学生時代に出来なかったことにチャレンジしていた時代だったと言えます。

社会人になるとトヨタ時代は「軟式野球」や流行りの「ボウリング」に熱中していましたが、本格的にスポーツに開眼したのは教員になった20代後半からです。

長崎北式見分校時代は、ラグビー・ハンドボール・剣道などにも手を染めました。

そして、長崎日大に奉職するようになると先ず職員チームの走ろう会に入り、合気道部・軟式男子

テニス部・中学バスケ部の顧問を歴任したり、自身も陸上・軟式テニス・ゴルフ・ボウリングなどを楽しんでいました。

一方で、明倫館や長崎日大中の創設運営など計14年も関わるといった仕事で多忙を極めていたことでアゲインストの風が吹き荒れ「酒食」に逃げていたわずか7年間の不節制から約90kgの超メタボ体型になりました。

転機3 その影響で48歳、49歳の2年に亘り既往症に似た肺疾患を患ったことから50歳から食生活を改め、規則的な運動習慣を送るようになって健康の再回復を図りました。

その後も断食などを新たに取り入れたりしてスリムになると新たな挑戦意欲が湧いてきて以前から注目していた佐世保島原105kmで開催されていた「イチマルゴウオークラリー」に初出場を果たしたのが58歳の年でした。

しかし、メタボを解消していたとはいえリバウンドしていて確か73kgぐらいはあり、73位17時間17分でしかも満身創痍状態でのほろ苦いデビュー戦となりました。

それからまた次の年にかけて高校時代の63kgまで減量して59歳の翌年大会では22位15:28というタイムでゴールして、それ以来この大会に病みつきになり今に至ったという次第です。

つまり、小学1年次のように病院のベッドへは2度と戻りたくないという必死の思いがいつも私を突き動かしているのだと思います。

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