高齢者に広がる健康格差?

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この団地に住み始めて30年が経過した。同世代もかなりの数に上る。しかし、30年前とは全く様相が違う。

あの頃は、若々しくて元気闊達でスポーツ万能だった人も‼️

ある人はヨボヨボ、しかしある人たちは今も若々しく現役。

50代、60代前半と比較しても変わらぬ活躍を続けている人たちもいる。

特に私には高校の同期生がいたり、元職場の同僚がいたりして過去との比較も容易である。

今日は、どうしてそんなに格差が生じるかについて迫ってみたい‼️

格差が広がる一番大きな原因は少年少女時代以来、一言で言えば「興味本意」だけでその刹那刹那を生きてきたことに尽きる。

自分の身近にいる人からそういう類いの示唆を得ないまま大人になってしまったことに原因がある。

私は父母以外に偉大なインフルエンサーが3人現れた。

一人目は小3担任の近藤柱石先生。(時間の大切さと読書の奨励)。

二人目は、スポーツ音痴の私に師弟同行でスポーツの楽しさを伝授された井手嘉徳先生。

3人目は、人生に必要な集中力と持続力を坐禅で会得せよと示唆された高3物理の教科担任の椋本薫先生。

中3生の時、母親と同じ佐世保北高へ行かせてほしいと頼んだが、父の鶴の一声で猶興館へ。

大学進学は千葉大入試の数学一問で敢えなく敗退した。しかし、猶興館以上の歴史を誇る二松學舍へ。

大学では「語学=中国語マスター」だけが目的だったので、それ以外は飲食業界で料理と接客の法則を学ぶことに専念。

しかし、大学が特殊な大学だったため語学への進展、才能開花は見込めず、方向転換してトヨタで営業職へ。

東京、長崎で5年の長〜い遠回りを経て伴侶と同じ教育職に就いたのは、何と20代も終わり。

定職となり25年間勤めた長崎日大にたどり着いたのは、齢30歳。遅咲きなのにそれも定年を待たず54歳で退職。

それから家内だけに任せていた「みのる塾」を法人化して今に至るが、それも既に満21年経過した。

この間、小1で「肺湿潤」に罹患して3ヶ月入院したことが、私の人生のあらゆる原点となっている。

もし、このことがなければ3年生まで安静を強制されずに自由に身体を動かすことができたはず。

代償行為として勉学に打ち込む少年ではなかったかも知れない。

中学生の井手先生や高校の椋本先生の脱線話しに乗らなかったかも知れない。

教育職をやっていた時も数多くのクラブ活動や顧問を引き受けたりもしなかっただろう。

また同僚の妬み嫉みから逃れ、平衡感覚を保つため酒食に溺れた7年間もなかったかも知れない。

しかし、そのお陰で48歳時に30歳代の走ろう会での記憶が蘇り、はっきりと悟ることが出来た。

生活習慣の中に私独自のスポーツを落とし込む大切さを‼️

その後も歩き以外にゴルフや軟式野球などもしたが、矢張り私には「ボッチウォーク」が最適だった。

各地で開催されていたウォーキング大会に出ているうちに「佐世保島原105キロ」で開催されていたウォークラリーの噂を聞きつけ、初出場したのが何と58歳。

それ以来100km超のウォーキングの虜となってしまった。20kmや30kmはごまかせても、百キロ超はごまかせなかった。

速さもさることながら、気力、筋力、酸素摂取容量など様々な要素があるからだ。

兎に角、我々人間に唯一共通して平等にあるのは「時間」だけ。その時間をどんな価値観や使命観を持ち、どんな優先順位で、毎日の中にどう落とし込んでいくかが明暗を分け、特に高齢者には問われている。

しかし、それを自覚的に使用している人はごく少数派だから高齢になればなるほどその差が開いていくのである。

無限であれば、こんなことを言っても仕方ないのだが、こうやっている間にも確実にあの世が近付いているのである。

正に「光陰矢の如し。時人を待たず」の道理である。(故辻宗哲老師の教え)

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