私の各種同窓会、同期会回想‼️

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ー学生時代の同級会や同窓会と私の関わり方ー

今関連または出席しているのは二松學舍大学の「松苓会総会(同窓会)」(コロナ禍で3年中断)だけと言っても言い過ぎではない。

かつては、高校時代の同期会、中学時代の同期会、はたまた猶興館の長崎県市部会などほぼ定期的に出席参加していた。

というか、一番最初にそんな会合を作ったのは私自身だったからである。

猶興館を昭和41年3月に卒業した3年8組には46名(男子40名+女子6名)のクラスメートがいた。

その20年後を記念して同級会を作ろうという気運になり、私たち2人が同じクラスだったことから否応もなく事務局長兼運営者になった。

家内は別として高校時代に生徒会の一員としてその活動や運営に携わったり、新聞部の部長だったりしたことからのご指名ではなかったろうか⁉️

その過程の中で東京支部や福岡支部を立ち上げたりして次第に盛況になっていき、平戸では年1回、東京や福岡でも不定期で開催した。

その内私が長崎日大に定職に就き忙しくなっていくと東京支部は大石君に支部長をお願いして、やがては関東在住の猶興館同期生を集めた支部として発展していった。

この時と期を同一にして猶興館の長崎支部からもお誘いを頂いて入会し、時代を感じる大先輩や高校時代に薫陶を受けた先輩たちと再会することになった。

ただ、同期会や同級会とは違ってへいこらするのが嫌いなタイプの私は次第に足が遠のいていったようだ。

そして昭和が終わり、平成時代になると次には田平中から同期会のお誘いがかかるようになった。

田平中の同期生は私たちが戦後最初の生まれで跡継ぎが多かったのか地元に残っている同期生はまとまりがあって全て彼らの世話で参加するだけで良かった。

この会合は、2、3年おきに開催されていた。会場は、父が理事長をしたことのある「国民宿舎たびら荘(今はサムソンホテル)」で開催されていた。

それから次には二松の松苓会長崎県支部からもお誘いがあり、平成7年に入会した。

そして3年経過した時点で坪の上先輩から支部長としてご指名があり、大学で事務局長をしていたのが同期生ということもあり、今日まで支部長役が続いている。

だから、この職としては何もやってないのにもう24年もやっていることになる。

大学同期の小林君は当時は大学事務局長だったのが、トントン拍子で理事となり、定年退職をすると今度は松苓会の事務局長となったため辞めように辞めさせて貰えない事情がある。

さて、そんなこんなで同級会、同期会、同窓会に長年関わってきたが、60歳つまり還暦を過ぎた辺りから雲行きが怪しくなってきた。

つまり、その前後から急速に健康を害したり、長年の不節制から急死したりする同期生が増えてきて会合に出ても楽しくなくなっていった。

だから、それ以後は何度かしかそういう会合に出なくなってしまったのである。出ても暗い話やマイナスオーラばかりで楽しめなくなったからである。

今は私より若い人たちでプラスオーラのある人、高齢者でも前向きな人など少数派の人たちと楽しい会合を拓くこと、主宰することに転換していっている。

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