温故知新…長崎日大走ろう会

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長崎日大の教職員で構成されていた走ろう会に加入した30歳当初から走りが日課になり、トレーニングの成果を観る目的でロードレースや駅伝に出場するようになった。

少年時代から元々早い方ではなかったので、チームの最下位(Dチーム)のアンカーが私の定位置だった。

でも、明倫館の寮監を8年間させて頂いたお陰で監督や陸上部員と親しくなって一緒に練習をさせて貰い、奥深く学べたのは幸いだった。

長崎日大を退職して暫くは走っていたが、フシダラな生活を約7年続けたためメタボとなってそれを解消しようと50歳からから歩きで有酸素運動を再開した。

42歳で寮監を辞し学校に戻って学級担任、教科担任になると同時に子どもたち通学や将来の進学に備えるため長崎市石神町に一家転住した。

しかし、好事魔多し。

当時長崎市には中高同期の歯科医のYI君、同じく高校同期の東大法学部卒で当時県経済部長の故SF君(最後は筑波大学教授)がいたし、歯科医紹介のスナックアロマのちず代ママと飲み食いする絶好の環境であった。

そして学校の内外でも油の乗り盛りで夜な夜な飲み屋通いが続いて、僅か7年間で最高89KGのデブ体型になった。

その結果、小1の時に患った肺に異常が発生して長崎日大坂を登る途中で呼吸が苦しくなる非常事態が発生した。

これは47歳、48歳の冬場に2度に亘り発生してその都度成人病センターで薬を処方して乗り超えた。

しかし、事態は深刻で視野狭窄など失明一歩寸前の糖尿病レベルだったというのがものの本で分かった。

そこで根本から解決しようと50歳の年からトボトボ歩き始めたという次第である。

フシダラな生活習慣から脱出できたのは30歳代に長崎日大走ろう会で11年連続駅伝Dチームのぶっきちょ走りで学んだ有酸素運動だったのである。

原因結果の法則、因果応報、知行合一ということばやたら使うのは、何時も学んだことが私の人生を支えていると思い、そこに法則性を観ているのである。

一生一回限り。知り得たこと、知り合った方、書籍から学んだ智恵をどう活かすかは本人次第。

書籍、新聞などの活字の世界で学んだことを実生活の中のルーティーンに活かした行動を今日も粛々と続けていこう❣️👍

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